慢性骨髄性白血病で子を亡くした父の訴え
2012.05.28 Monday
生命保険会社に勤務していた28歳男性が、1998(平成10)年9月26日に慢性骨髄性白血病と診断され(白血球数324,000/μl)、骨髄移植を受けたのですが、残念ながら、2000(平成12)年6月10日(29歳)に間質性肺炎でなくなりました。
被災者が、1997(平成9)年4月から1998(平成10)年9月までの18か月間、生命保険会社で働いた業務は、総労働時間7,408時間、うち残業時間合計4,818時間というものです。1時間/日の休憩時間を取得できたとしての計算ですが、実際には所定の休憩時間は取得できていません。
被災者は、「労働者が労働時間の全部又は一部について事業場外で業務に従事した場合において、労働時間を算定し難いときは、所定労働時間労働したものとみなす。」(労働基準法第38条の2)に基づき、午前9時から午後5時まで働いていたと「みなされ」、実残業分の残業手当は支払われておりません。
どうして、始終業時刻がわかったかというと、事業所の開錠施錠がカードキーで操作されるシステムで、最初の入室者、最後の退出者の時刻と氏名が記録されていたからです。ほとんどが被災者が最初の入室者であり、かつ、最後の退出者だったのです。次の表は、労働基準監督署の調査復命書の記載です。
総労働時間7,408時間/18か月=4,939時間/年。みなさん想像できますか?
1年半の勤務で、休日は、年末年始・ゴールデンウイーク・旧盆に数日の休み(1年半で合計20日)があっただけです。
平日は午前8時30分までには出勤し、午後10時から午前0時頃までの勤務、土日も午前10時には業務を開始し、平日よりは若干早い帰宅、休憩時間についても、ほとんど満足に取れていなかった。これは労働基準監督署の調査復命書の記述です。
こんな仕事をしたら、健康に有害であること、慢性骨髄性白血病と診断された時の白血球数が324,000/μlであることを考慮すれば、客観的には、慢性骨髄性白血病と診断されうる状態になってからも、過酷な労働を続けていたことになります。
3人の医師(原告側申請1名、被告側申請2名)が、証言をしました。3人の医師共に、臨床医としては、慢性骨髄性白血病と診断された患者に4,939時間/年というような異常な長時間労働はやめるように指示すると証言しました。しかしながら、労働基準監督署が申請をした医師両名は、このように指示するとしても、過酷な労働に従事することで慢性骨髄性白血病の進行あるいは療養の予後に悪影響を与えたことはないと証言をしています。
「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を、是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」(東大ルンパール事件最判1975(昭和50)年10月24日民集29-9-1417)とするのが判例です。
被災者のお父さんは、このような長時間労働が許されない社会にするために、労災申請をしました。
労働基準監督署の担当者の調査復命書には、「本件について被災者は平成10年9月初旬に慢性骨髄性白血病を発症し、発症前の業務は明らかな過重負荷があったと認られ、それは疾患名が脳心臓疾患であれば、十分に認定要件を満たしているといえるだけの内容であった。」と記載されていますが、疾病が慢性骨髄性白血病であることから因果関係を否定し、審査請求、再審査請求を経て、東京地裁に行政訴訟を提訴しています。
5月24日には、4年間の審理を終え、原告の意見陳述がありました。
心を打つ意見陳述でしたので、原告の了解を得て全文を紹介します(固有名詞は略しております)。
被災者の父親でございます。あと半月で長男を失いましてから12年になろうとしております。
『死んだ子供の年を数える』という物言いがあります。どう仕様もない過去にいつまでもとらわれている有様を言うそうですが、折に触れ元気であれば今幾つになっている筈、この人と同じ位かなどとつい考えてしまいます。
ここにおられます皆様もお子様をお持ちのことと思います。何歳の子供でも同じだと思いますが、30歳を目前にした長男を亡くしました気持ち・・・無念さ、口惜しさを是非お考えいただきたいと思います。
長男は平成9年4月から平成10年9月までの18か月間に、生命保険会社におきまして、常識では全く考えられないような長時間労働を強いられた中で慢性骨髄性白血病を発症しました。長男はもちろん私たちもこの病名を告げられた時は大変なショックを受けました。
しかし長男は最初の入院の時には病気そのものに対する不安より、「長い間の激務から解放され、とにかく仕事のことを考えないで済むから楽でホットする」と、又これからの過酷な治療を告げられた時も「今までやってきた仕事のことを考えればどんなに辛いことでも耐えられるよ」とベッドの上で話していたことを忘れることが出来ません。
残念なことに骨髄移植手術後の経過は順調とは言えず、次々と苦しい症状が表れその都度頑張って乗り越えておりましたが最後の肺炎の時には、どのような治療をしてもどんどんと悪化していく中で「良くなるのならいくらでも頑張るけど一向に良くならないからもう頑張れない」と言って力尽きてしまいました。
一年半もの間ずっと仕事で頑張りとおして疲れ果て、その結果このように苛酷な病気にかかり、頑張り続けたにもかかわらず最悪の結末を迎え、只、只悲惨、可愛そう、としか言いようがありません。
仕事のことは何も話さない子供でしたが、幕張で働き出して家内に仕事がらみのことで3度電話があったそうです。2度は車の中から「少し寝たいから10分くらいしたら電話をかけて起こして欲しい」との用件でした。後日の調査で友人にも数回同様な電話をしていたことが分りました。余程睡眠がとれていなかったのだと思います。
3度目は幕張の業務が厳しいことから、今までは一年で転勤になると言われていたのに発令がなかった時です。「一年だけだと思って死に物狂いで頑張ってやってきたけどもう限界だよ、どうしよう」と弱弱しい声で電話をしてきたということで、相当ショゲかえっていたそうです。上司に何度か訴えたにもかかわらず要望は聞き入れられなかったようで、結局は諦めざるを得なかったのでしょう。
その後は機会あるごとに「人間らしい生活が早くしたい」と言うのみでした。
食事にしても一日一食、朝は時間もないし、昼食は上司から分刻みで指示の電話があり食べている時間もないと信じられないようなことを言っておりました。通常の休みすらほとんど取れない上に体調が悪くても休める状況ではなく、気の遠くなるような長時間労働、時には土下座をも強いられるようなストレスが重くのしかかる悪夢のような毎日から早く抜け出したかったのだと思います。
病気を発症する以前のことでしたが、スポーツタイプの2ドアの車を買い、それを仕事の時に使っておりました。営業職員は後部座席に乗せなければいけないとの規則で、使い勝手が悪いため私の使っていたセダンタイプの車と取り換えて欲しいとの希望で、幕張に夜の9時頃次男と一緒に車を届けに行ったことがあります。ビルの下に車を取りに来た長男はゲッソリとしてとても疲れた様子で、風に吹かれると飛んで行きそうなフワフワした感じを受けました。
先程コンビニで弁当を買ってきてこれから食べるところだと言っておりましたが、今から考えるとあの時もあれがその日の一食目だったのかもしれません。
今まで申し上げましたことは、一緒に仕事をしていた営業職員、同僚等の話からも良く分ります。
・ 今思えば入院直前のKさんは、今にも倒れそうにお疲れで、お痩せになって気力だけで仕事をしていました。このたびの入院は神様がくれた休日です。
・ 心配していたとおりでした。人間生きているのです。休まず働いてはいつかはこわれます。
・ 私もKさんのことを食事もしないで働いて夜もいつまでも。いつ寝ているのかと思っていました。
・ 営業部に来て以来ずっと全力で走りつづけていたのと同じ状態でしたね。身体をこわさなければよいのにと思っていた矢先に入院のことを知り心が痛みました。
・ あのままの勤務状態ではいつかは倒れると思っていました。神様が休養を与えてくださったのですね。
・ 突然の入院を聞いてビックリやらショックで・・・。でもここ何ヶ月かKさんがどんどん痩せていくのを見ていて心配していました。
・ Kさんが疲労によってこのような病気で倒れたことは、私たちが証明できる。
・ Kさんは完全に過労死だ。半年くらいの間に、どんどん元気がなくなっていくのが分った。もっと早く移植手術を受けられれば、元気になっていたのではないか。
・ 赴任してきた時はジャニーズ系の溌剌とした湘南ボーイの好青年だったが、H9/7〜10/3頃まで、Kさんと一緒にいた間にどんどん痩せて行った。自分のことを構っていけず、一年を超えた頃からドンドン痩せていって、身辺のことを構うゆとりもなく、ワイシャツもくしゃくしゃ、スーツもクリーニングに出せず風呂へ入るより寝ると言う生活で、ふけも酷い状態だった。
・ Kさんと10ヶ月一緒にいる間に、みるみる痩せて行った。ズボンがゴソゴソになって、座っている姿が薄っぺらくなっていた。
・ メガネを嫌ってコンタクトを入れていたが、その頃からはコンタクトのケアが出来ずに、メガネをかけざるを得なくなっていた。
・ Kさんは家に帰っても、自分の時間が無く、物事の整理をする暇も無く、風呂にも入れない。ただ寝るだけという生活だったと思う。
・ 疲れた、疲れたと言うのがKさんの口癖になっていた。
結構身だしなみには気を使う性格だっただけに、どんな気持ちでいたのかと不憫でなりません。
最初の入院に際し、必要な物があり長男と一緒に社宅に取りに行ったことがあります。
私も学生時代色々な下宿、寮の生活を見てきましたが、部屋に入った時愕然としました。
それこそ震災直後の瓦礫の山のようで足の踏み場もなく、空間のあるのはベッドの上だけと言う状態でした。一寸ひどすぎるのではないかと文句を言った記憶がありますが、後から職員さんたちの話を聞いて、実感として何故あのような状態であったかが良く分りました。
証人の先生方は色々と難しいことをおっしゃっていますが、一緒に仕事をしていた人達が長男の変化を間近に見ていた話ですから是非ご検討いただきたいと思います。
言語を絶するような異常な労働時間、休みたくても休ませてもらえないという異常な労働環境下では、免疫の力も低下し病気になるということは常識で分ることです。病名が慢性骨髄性白血病であっただけのことです。過重労働の結果の発症・増悪であったことは誰が考えても明らかなことだと思います。
冒頭に申しあげましたように長男が逝きまして12年経ちました。戻ってくる訳では決してありません。今も裁判を続けておりますのは、長男のような事例を決して、二度と出してはいけないと考えるからです。
「過労死」と言う日本語は「津波」と言う日本語同様に世界で通用すると聞きました。
日本にとって恥ずかしいことだと思います。
「過労死」と言う言葉が死語になる日が一日も早く来ることを願って已みません。
そのためにも企業の過労死に対する認識を一日も早く変えさせる必要があります。
本件のような事案が認められることによって、その認識は大きく変わるものと信じております。
格段のご配慮をお願いして私の意見陳述とさせていただきます。
被災者が、1997(平成9)年4月から1998(平成10)年9月までの18か月間、生命保険会社で働いた業務は、総労働時間7,408時間、うち残業時間合計4,818時間というものです。1時間/日の休憩時間を取得できたとしての計算ですが、実際には所定の休憩時間は取得できていません。
被災者は、「労働者が労働時間の全部又は一部について事業場外で業務に従事した場合において、労働時間を算定し難いときは、所定労働時間労働したものとみなす。」(労働基準法第38条の2)に基づき、午前9時から午後5時まで働いていたと「みなされ」、実残業分の残業手当は支払われておりません。
どうして、始終業時刻がわかったかというと、事業所の開錠施錠がカードキーで操作されるシステムで、最初の入室者、最後の退出者の時刻と氏名が記録されていたからです。ほとんどが被災者が最初の入室者であり、かつ、最後の退出者だったのです。次の表は、労働基準監督署の調査復命書の記載です。
総労働時間7,408時間/18か月=4,939時間/年。みなさん想像できますか?
1年半の勤務で、休日は、年末年始・ゴールデンウイーク・旧盆に数日の休み(1年半で合計20日)があっただけです。
平日は午前8時30分までには出勤し、午後10時から午前0時頃までの勤務、土日も午前10時には業務を開始し、平日よりは若干早い帰宅、休憩時間についても、ほとんど満足に取れていなかった。これは労働基準監督署の調査復命書の記述です。
こんな仕事をしたら、健康に有害であること、慢性骨髄性白血病と診断された時の白血球数が324,000/μlであることを考慮すれば、客観的には、慢性骨髄性白血病と診断されうる状態になってからも、過酷な労働を続けていたことになります。
3人の医師(原告側申請1名、被告側申請2名)が、証言をしました。3人の医師共に、臨床医としては、慢性骨髄性白血病と診断された患者に4,939時間/年というような異常な長時間労働はやめるように指示すると証言しました。しかしながら、労働基準監督署が申請をした医師両名は、このように指示するとしても、過酷な労働に従事することで慢性骨髄性白血病の進行あるいは療養の予後に悪影響を与えたことはないと証言をしています。
「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を、是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」(東大ルンパール事件最判1975(昭和50)年10月24日民集29-9-1417)とするのが判例です。
被災者のお父さんは、このような長時間労働が許されない社会にするために、労災申請をしました。
労働基準監督署の担当者の調査復命書には、「本件について被災者は平成10年9月初旬に慢性骨髄性白血病を発症し、発症前の業務は明らかな過重負荷があったと認られ、それは疾患名が脳心臓疾患であれば、十分に認定要件を満たしているといえるだけの内容であった。」と記載されていますが、疾病が慢性骨髄性白血病であることから因果関係を否定し、審査請求、再審査請求を経て、東京地裁に行政訴訟を提訴しています。
5月24日には、4年間の審理を終え、原告の意見陳述がありました。
心を打つ意見陳述でしたので、原告の了解を得て全文を紹介します(固有名詞は略しております)。
被災者の父親でございます。あと半月で長男を失いましてから12年になろうとしております。
『死んだ子供の年を数える』という物言いがあります。どう仕様もない過去にいつまでもとらわれている有様を言うそうですが、折に触れ元気であれば今幾つになっている筈、この人と同じ位かなどとつい考えてしまいます。
ここにおられます皆様もお子様をお持ちのことと思います。何歳の子供でも同じだと思いますが、30歳を目前にした長男を亡くしました気持ち・・・無念さ、口惜しさを是非お考えいただきたいと思います。
長男は平成9年4月から平成10年9月までの18か月間に、生命保険会社におきまして、常識では全く考えられないような長時間労働を強いられた中で慢性骨髄性白血病を発症しました。長男はもちろん私たちもこの病名を告げられた時は大変なショックを受けました。
しかし長男は最初の入院の時には病気そのものに対する不安より、「長い間の激務から解放され、とにかく仕事のことを考えないで済むから楽でホットする」と、又これからの過酷な治療を告げられた時も「今までやってきた仕事のことを考えればどんなに辛いことでも耐えられるよ」とベッドの上で話していたことを忘れることが出来ません。
残念なことに骨髄移植手術後の経過は順調とは言えず、次々と苦しい症状が表れその都度頑張って乗り越えておりましたが最後の肺炎の時には、どのような治療をしてもどんどんと悪化していく中で「良くなるのならいくらでも頑張るけど一向に良くならないからもう頑張れない」と言って力尽きてしまいました。
一年半もの間ずっと仕事で頑張りとおして疲れ果て、その結果このように苛酷な病気にかかり、頑張り続けたにもかかわらず最悪の結末を迎え、只、只悲惨、可愛そう、としか言いようがありません。
仕事のことは何も話さない子供でしたが、幕張で働き出して家内に仕事がらみのことで3度電話があったそうです。2度は車の中から「少し寝たいから10分くらいしたら電話をかけて起こして欲しい」との用件でした。後日の調査で友人にも数回同様な電話をしていたことが分りました。余程睡眠がとれていなかったのだと思います。
3度目は幕張の業務が厳しいことから、今までは一年で転勤になると言われていたのに発令がなかった時です。「一年だけだと思って死に物狂いで頑張ってやってきたけどもう限界だよ、どうしよう」と弱弱しい声で電話をしてきたということで、相当ショゲかえっていたそうです。上司に何度か訴えたにもかかわらず要望は聞き入れられなかったようで、結局は諦めざるを得なかったのでしょう。
その後は機会あるごとに「人間らしい生活が早くしたい」と言うのみでした。
食事にしても一日一食、朝は時間もないし、昼食は上司から分刻みで指示の電話があり食べている時間もないと信じられないようなことを言っておりました。通常の休みすらほとんど取れない上に体調が悪くても休める状況ではなく、気の遠くなるような長時間労働、時には土下座をも強いられるようなストレスが重くのしかかる悪夢のような毎日から早く抜け出したかったのだと思います。
病気を発症する以前のことでしたが、スポーツタイプの2ドアの車を買い、それを仕事の時に使っておりました。営業職員は後部座席に乗せなければいけないとの規則で、使い勝手が悪いため私の使っていたセダンタイプの車と取り換えて欲しいとの希望で、幕張に夜の9時頃次男と一緒に車を届けに行ったことがあります。ビルの下に車を取りに来た長男はゲッソリとしてとても疲れた様子で、風に吹かれると飛んで行きそうなフワフワした感じを受けました。
先程コンビニで弁当を買ってきてこれから食べるところだと言っておりましたが、今から考えるとあの時もあれがその日の一食目だったのかもしれません。
今まで申し上げましたことは、一緒に仕事をしていた営業職員、同僚等の話からも良く分ります。
・ 今思えば入院直前のKさんは、今にも倒れそうにお疲れで、お痩せになって気力だけで仕事をしていました。このたびの入院は神様がくれた休日です。
・ 心配していたとおりでした。人間生きているのです。休まず働いてはいつかはこわれます。
・ 私もKさんのことを食事もしないで働いて夜もいつまでも。いつ寝ているのかと思っていました。
・ 営業部に来て以来ずっと全力で走りつづけていたのと同じ状態でしたね。身体をこわさなければよいのにと思っていた矢先に入院のことを知り心が痛みました。
・ あのままの勤務状態ではいつかは倒れると思っていました。神様が休養を与えてくださったのですね。
・ 突然の入院を聞いてビックリやらショックで・・・。でもここ何ヶ月かKさんがどんどん痩せていくのを見ていて心配していました。
・ Kさんが疲労によってこのような病気で倒れたことは、私たちが証明できる。
・ Kさんは完全に過労死だ。半年くらいの間に、どんどん元気がなくなっていくのが分った。もっと早く移植手術を受けられれば、元気になっていたのではないか。
・ 赴任してきた時はジャニーズ系の溌剌とした湘南ボーイの好青年だったが、H9/7〜10/3頃まで、Kさんと一緒にいた間にどんどん痩せて行った。自分のことを構っていけず、一年を超えた頃からドンドン痩せていって、身辺のことを構うゆとりもなく、ワイシャツもくしゃくしゃ、スーツもクリーニングに出せず風呂へ入るより寝ると言う生活で、ふけも酷い状態だった。
・ Kさんと10ヶ月一緒にいる間に、みるみる痩せて行った。ズボンがゴソゴソになって、座っている姿が薄っぺらくなっていた。
・ メガネを嫌ってコンタクトを入れていたが、その頃からはコンタクトのケアが出来ずに、メガネをかけざるを得なくなっていた。
・ Kさんは家に帰っても、自分の時間が無く、物事の整理をする暇も無く、風呂にも入れない。ただ寝るだけという生活だったと思う。
・ 疲れた、疲れたと言うのがKさんの口癖になっていた。
結構身だしなみには気を使う性格だっただけに、どんな気持ちでいたのかと不憫でなりません。
最初の入院に際し、必要な物があり長男と一緒に社宅に取りに行ったことがあります。
私も学生時代色々な下宿、寮の生活を見てきましたが、部屋に入った時愕然としました。
それこそ震災直後の瓦礫の山のようで足の踏み場もなく、空間のあるのはベッドの上だけと言う状態でした。一寸ひどすぎるのではないかと文句を言った記憶がありますが、後から職員さんたちの話を聞いて、実感として何故あのような状態であったかが良く分りました。
証人の先生方は色々と難しいことをおっしゃっていますが、一緒に仕事をしていた人達が長男の変化を間近に見ていた話ですから是非ご検討いただきたいと思います。
言語を絶するような異常な労働時間、休みたくても休ませてもらえないという異常な労働環境下では、免疫の力も低下し病気になるということは常識で分ることです。病名が慢性骨髄性白血病であっただけのことです。過重労働の結果の発症・増悪であったことは誰が考えても明らかなことだと思います。
冒頭に申しあげましたように長男が逝きまして12年経ちました。戻ってくる訳では決してありません。今も裁判を続けておりますのは、長男のような事例を決して、二度と出してはいけないと考えるからです。
「過労死」と言う日本語は「津波」と言う日本語同様に世界で通用すると聞きました。
日本にとって恥ずかしいことだと思います。
「過労死」と言う言葉が死語になる日が一日も早く来ることを願って已みません。
そのためにも企業の過労死に対する認識を一日も早く変えさせる必要があります。
本件のような事案が認められることによって、その認識は大きく変わるものと信じております。
格段のご配慮をお願いして私の意見陳述とさせていただきます。